絶対量と相対量
昨日の地理学会で,こういう話しがあった。
これは地理学教育では大変重要だろう。
が,少し考えた。
1,日本はブラジルのコーヒー豆を輸入しておりその輸入高は世界一位だ。
2,ブラジルのコーヒー豆の輸出高は,全体の約1%だ。
これは,
1,オーストラリアの羊毛の日本への輸入は他の羊毛輸出国のなかでは一位だ。
2,オーストラリアの羊毛はオーストラリアの輸出額の約1%だ。
と同じだ。
ここでなにを言われているかということだ。
ブラジルもオーストラリアも,確かにコーヒー豆や羊毛は生産しているし輸出しているが,その額は1%にすぎない,ということ。
この絶対量と相対量を見ないと,現実は誤ってしまうのではないかということだ。
しかし,コーヒーを消費するのは圧倒的に日本は世界一だろう。いや世界一といういいかたはそぐわない。消費が世界でもっとも多いというべきだ。
すると,世界のどこの国でコーヒーを栽培し乾燥させ輸出までできるようになっているかは,ブラジルやインドネシアなど限られたところだ。
そこに日本は技術や経済で絡んでいる。
第二次大戦後,日本は世界に追いつけ追い越せで戦後最大の世界最大の経済大国のなった。そのなかに,実はこういう涙ぐましい努力がある。
コーヒーをまず生産させること,また消費させることまで,海外で生産しその国から輸出出来るようにし,それを日本国内に輸入し,日本国内でのマーケット,インフラを整備させソフトまでも整えたのは日本なのだ。
これは他の生産品にもあてはまる。
この知識はどこかで探してもらって,ここではその絶対量と相対量をどう捉えるかを考えなければいけないとおもうのだ。
今の例ですると,その落差は激しい。
ブラジルのコーヒーの生産高は世界で言っても大変大きいが,しかしブラジルの他の輸出額のトップには,工業生産品がくる。電子部品だったり機械工業品だったり。そういうものが圧倒的に大きい。
コーヒーは輸出の世界国勢一覧の名前に出ないような品目のなかに入り込む。
これをもう少し普遍的にいおう。
世界経済で見れば,コーヒーはその額はほとんど見えないくらいのところだ。
しかし,消費されるのは日本国内である。
そして,その額は世界的にみれば大変少ないが,確かにある。
しかし確かに少ない。
これを,世界経済のなかでどう活動させるか。
これは,例えば出版であっても同じだ。
世界で,日本語など取るに足らない言語だ。英語が普遍言語と言われ,フランス語は洛陽の一途をたどる。しかし日本国内ほど書籍や雑誌を読む国民はいないのではないか。新聞でもそうだ。新聞や雑誌はたしかに少なくなって来た。
しかし活字はまったくその衰えを見せない,と思う。
しかしやはり日本語がネックになる。上にもあげたが,英語が圧倒的にその域を広め,コミュニケーションやコンテンツ,または乱暴に言えば,「ヘルプ」ということまでも置き換わられている。
しかし文化はどうか。
文化は,その地域の言語がもつ唯一の手段になりえる。
だから日本語が,英語に取って代わられることはないだろうと思う。それはフランス語でもそうだろう。
自国の言語を話したり書いたりすることは大変貴重なことであるし重要なことだ。歴史が残り,それは再生産される。
日本に「源氏物語」や「古事記」「日本書紀」や「徒然草」,などなど多く残っているのは,その一つの証拠ともいえる。
« 地理ということ | トップページ | ロゴ作成と民族について »
「思索」カテゴリの記事
- covid19と国境(2020.07.19)
- うたげの会参加(2016.03.13)
- 吉本隆明氏 その3(2012.04.16)
- 吉本隆明氏 2(2012.04.15)
- 吉本隆明氏(2012.03.25)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント