歴史記述と文体

なんにでも当てはまるが、文章は上手いほうが読みやすい。では、上手いとはどういうことか、読ませるとはどういうことか、考えてみたほうがいい。まず、分野を歴史に限ってみよう。もっとも歴史を体言している記述は何か。それは何をおいても年表がそうだ。歴史科学で実証された事実ないしはそれに準じる事象を年代順に羅列していく記述。しかし、その列記までが大変だ。立論あり推論ありないしはパラダイムを考えなければならない。その記述は自らを納得させかつ読む者つまり批評を喚起させなければならない。文体はそこに現れる。推論した事象がさてそうなのか批評を待ち修正していく。そこには時代を遡り時代を大きく跨ぐこともあろう。一年代を微に入り細に入り検証していく作業もあろう。そういう鍛錬された柔軟かつ鋼のような強い文章が求められるのだ。そこに哲学的空隙があってもいい。工学的摩擦のような事象と事象がぶつかることがあってもいい。端的に言えば、概念のもとになる観念、思念、思考、を文字に変換しつなげていき、その概念を歴史事象にぶつけその真贋の判断をするわけであり、間違いなければ、その事象を記述していく。おおまかに書いたが、記述は大変重要ということである。

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本の製作

いま大きい本の仕事の一貫で製作に携わっている。予定を大幅に過ぎて、何回担当の編集者くんは、頭を方々に下げただろう。私は外部の協力者なので、手伝うだけだが。始まったころは、とにかく主体は君、編集者くんだから君主導でやってね、とよく言った。いまも遠慮勝ちな性格は変わらず、強く言わないと伝わらない場合がある。年は大きく変わるわけではないから、それも許されるところはあるのだが、たまにこちらもペースが崩される。ついなぁなぁの関係がよくないのだろうが、厳しくいかないといけないところは、きっぱり言うようにしている。それはあとでこちらが火傷をするからだ。
また、校正については、赤字の引き方が小さい。出たゲラに対して校正はそれをやった人の世界観が出ると思う。もう少しダイナミックにかつ知識は微細に進みたいものだ。これから伸びるのだろう。
さて、しかし彼はこれを一人ですべてやりその仕事なりを大きく把握しようとしている。それは間違いない。なかなか出来ることではないが、しかしオーバーワークになるのは当たり前だ。誰が悪いか、どこが悪いかは言わないでおこう。

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五月の街角で

今日有楽町で、映画「I'm not there.」を観ての帰り、大手町まで歩こうと私がいい、皇居お濠沿いを歩いた。
ちょうど、中国から、胡錦涛国家主席が来日し、遠かったがすぐ分かる右翼のそれが声高く響いていた。
写真にも挙げたか、第一生命ビルは東京都の文化財にもなっているらしく、綺麗にたたずんでいる。前の、いわばファサードというか整然と並んだ神殿形式の丸い柱が印象を強くする。
西陽が当たってそれぞれの陰影が濃くなっている時間帯。入り口などはあまり関係ないような、外壁というか外が大事という、近代建築の神髄か。写真ではあまり大きく写っていないが、実際にみると結構大きく感じる。

五月の街角で、は谷川俊太郎の詩集の解説を読んでいていいなと思ったフレーズだ、

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外注について

いつも外注に出すときにお願いしているとことがある。一応二人いるが、大体一人に絞っている。その人というか実は会社の社長さんだ。ご主人と会社をやっている。現場はご主人にまかせて、自分は会社を守っている。その人に、本のテキストの打ち込みなどをいつもお願いする。そうすると親戚にそれを回してやってくれる。本来はその親戚が全部できればいいのだが、なかなか諸事情がありできない。だから最後はいつもその方がまとめてフィニッシュとなる。
しかしその仕事ぶりがいい。隔靴掻痒というのはこういうことだと思う。人間間違いはつきものだから間違いはある。しかし、その数よりはるかにここまで見てくれたという感じのほうが多い。つまり勘所を押さえているということだろうか。だからいつも安心してまかせられる。そこがいい。

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織田という人物

歴史上の人物など、書くことは相当懸念する。それは、人物史などあるが、専門的にそのような書物を読んでいないということもあるし、庶民史、民衆史などと一線を画す話しにどうしてもなってしまうからだ。国家制度や国家史のなかでなら論じられてもよいと思うのだが、「織田信長論」とか「徳川家康」とか、すでにさまざまな事象が残されているわけだから、一人の人間がどうしたということはどうでも良いことなのである。
今日、「文藝春秋」の最新号を買おうと思ったが、なにか金銭的にもったいないので、ある記事の部分だけ図書館でコピーしてきて、読んだ。
「織田信長と 改革と破壊と」。これをみればわかる人はすぐぴんと来る。つまり、小泉元首相が挙げた小泉純一郎の好きな歴史上の人物だ。じつは私も告白すれば、この織田信長は若い頃から嫌いではなかった。「うつけ」とか「破壊者」とかたしかにいわれてきたからだ。
しかし時の権力者がいうと、いやになるのが私の性分。少し、そのところは見ないふりをしていた。
今回、ではなぜこの記事を読むか、というと、本郷和人氏など若手中世史研究家がこの対談のなかに入っているからだ。しかし、ホスト役は堺屋太一。いやだな。
ほかに、静岡大学教授の小和田哲男氏、茨城大準教授の磯田道史氏。この4人。
このなかで、信長の長篠合戦での三段撃ちは史実ではないと言うこと。また、桶狭間の戦いでは、これだけ慎重にことを運ぶはずの信長が、討ち死に覚悟で、多勢に無勢でかかるかということだ。信長の兵力は集めればもっと集まったという。
また、信長と秀吉、家康との違いは、信長はあくまでも天下布武ということで、天下をとるには、文化のあらゆるものを取り入れ一つのセンスを作っていくが、秀吉は金銀という価値としてはあまり成熟されないことに傾注した。また、家康は『吾妻鏡』をよく読み、源頼朝の昔に戻ることが基本理念だったということ。だから、鎌倉という中世の権力都市に近いところを選んだ。
また、信長は貿易という経済理念や楽市楽座など座に対する財政を考え、商人を作り出しのその運上金で寺社や公家、さらに兵站の補填をした。信長の旗頭は、「永楽通宝」であり、やはりここに経済を重視した権力者が浮き出る。
信長は、歴史上、古代以来久しくなかったジェノサイド(大量殺戮)を犯している。石山寺焼き討ちや比叡山襲撃だ。これは、社会全体を否定することであるし、国としての機能自体を不明なものにしてしまう。信長の死生観というが、やはり宗教など信長には合理ということでは理解できないものがあったのかもしれない。
もう一つは、信長は近いブレーンを持たなかった。秀吉の竹中半兵衛、黒田勘兵衛。家康の大久保長安、天海など。
さらに、秀吉はビジョンを持たなかった。それは、信長と家康が、大小の差こそはあれ武将の子であったのに対し、貧しい階層の出身であったからとする。秀吉はスペシャリストではあったが、信長、家康のようなゼネラリストではなかった。
信長はそれが、ルイス・フロイスなどイエズス会宣教師と交わる機会につながり、それが世界観を作り上げていった、とする。これは大変示唆的だった。
信長の人生はたった三十数年だが世界地図を手中にするほどの感覚が確かにあるのである。
ちなみに、この対談では小泉改革は中途半端で終わっているとする。それが出だしだが。

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アマゾンについての一言−その二

「在庫」をもう少し詳しく言う。たとえば版元(出版社)での棚卸し時。
編集者が何かの仕事で自分のデスクに一冊本を置いておいたとしよう。
それは棚卸し時には絶対に数える。または流通の過程で、どこか目立たないところに本が一冊紛れ込んでいたら、それも市場在庫ないしは流通在庫になる。廃棄処分しない限りは、またはその本が商品価値を崩していなければ、生き続けるわけで、流通在庫や市場在庫は、売れなければ返品として出版社に帰ってくる恐れがある。
ただし何年も経ってからだと、出版社は受け付けられない。なぜか。再版している場合があるからだ。訂正版を作っている場合もある。そのリスクがいやで、書店は早く返すということも考えられる(まあ少し揶揄があるが)しやはり本は生き物である。
さて、話しを元に戻すと、アマゾンが「在庫切れ」という表現を用いている、と言った。そしてこれは読者ないしは購買者に誤解を与えかねない、とした。
どのような誤解か。
つまりは、書店側には(その書店の倉庫に)在庫がないだけなのに、購買者は購入する機会を逃したか、と思ってしまうことだ。しかし出版社には依然在庫がある場合がある。
そして、では購買者がもはや新刊の状態で詠むことはできないと判断したらどうするか。ご自分の経験に当てはめてみてほしい。
多分古書店を探すだろう。
いかがだろうか。
私の経験では読者とは、衝動買いをするものだと教えられてきた。まあこれは専門書か一般書かによるが。
しかし、アマゾンは「マーケットプレイス」というシステムをもつ。個人が出品できる仕組みだ。そこで、だれかわからないWが、出版社が5,000円で定価販売している本を、10,000円でマーケットプレイスに出品したとしよう。
もし、先ほどの誤解で購買者がもう図書館でしか読めないか、と諦めかけていた本が、目の前に少し値段は高いが手に入る、俄然現実味を帯びてきた事実を呈されたら、私だったらもう天にも昇る気持ちだろう。
そして、10,000円出して買うとする。
すると、そのだれかわからないWである出品者は、マーケットプレイスは15%の手数料をとるらしいから、1,500円と、この定価5,000円の本をどこかで仕入れてきたとして、定価なら
5,000+1,500=6,500円が経費としてかかり、10,000円で売ったのだから、差額3,500円の儲けになる。
おそらくもっと高い値段で売るだろう。やっかいなことにそれが商品を見る目もそなえているとすれば、怖い。
たとえば、岩田氏が調べた出品者Kは、3,500点の書籍をアマゾンマーケットプレイスに出している。その資金力も大したものだ。もし平均定価3,000円×3,500点=10,500,000円すなわち一千万円の資金がある計算だ。
実際に、注文してみたら5日目には届いたそうだ。差出人の住所は沼津。東京ではない。また、岩田さんのところに注文が入ったという気配もないという。やはり、在庫としてもっているのか。
さて、その後岩田さんのところでアマゾンに出品したら、今度は定価より安く値段を設定してきた。相当研究している。
そういう出品者が他にいるということでこの話しは一段落するが。
やはり購買者ないしは読者諸兄は、専門書の場合特に注意して買われたほうが得策に違いない。

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アマゾンについての一言 在庫ということ

今朝起きて朝食がてら、郵便の束を少し整理していて重要に思ったこと。
先輩で友人の出版社の岩田書院の岩田さんから送られてきた「図書目録2008」をみた。
凄い。出版点数が半端じゃない。彼が一人でこなすのだから相当なものだ。
出版は出すまでにそうとうに気苦労がいる。そして出してからもまた気苦労の連続だ。
「図書目録」の後に「新刊ニュースの裏だより2007.01〜2007.12」がある。
そこを読んでいて、さて困った。タイトルは「アマゾンって、こうなんだ」。
それを引用すると、
アマゾンは自社倉庫に在庫がない場合、「在庫切れ」という表示がネット上のアマゾンに出る。まあこれだけ読むならばそれで、となるが、購買者である読者は、この「在庫切れ」を「品切れ」と読み、さらに、「(出版社にも)在庫なし」と判断させてしまう恐れがあるというものだ。つまり、書店、出版社には在庫がない、という印象を与えてしまう、ということだ。
いくら出版社に在庫があってもこう判断されてはもと子もない。
アマゾンも売れない情報よりは売れる情報を載せた方がいいのではないか。
せっかくの購買の機会がこれで一つつぶれる。<

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靖国YASUKUNI

情けない。上映を中止するなんて。興行収益や安全性云々よりは、映画館さんあなた方が文化の一端を担っているという自覚はないのでしょうか。
あの映画館がどんどんなくなっていった時代はどこにいったのでしょうか。
銭湯なみに、駅前の書店なみにあった映画館は、テレビに取られて集客力はみるみる減り映画産業はもうだめか、と言われた時代はつい最近です。
しかし一旦外にアジアに出てみると娯楽の少ない彼等は映画を楽しみにし、日本の映画を手本にし、映画を観て笑い悲しみ喜びしてきたではないか。
そしていま日本の映画産業はどうか。依然経営が苦しいのは当たり前だろう。が、映画を上映する側にプライドはあるだろうか。なぜ映画館を経営しているのか。馬鹿な国会議員がなにかいったからと言って中止するようじゃ、映画は興行できないだろう。
ぜひ反旗を翻してもらいたいものだ。
彼の監督は12年も日本に住み、映画作りに必要な資金を文化庁に申請した当然の理由があるだけではないか。
考え直して欲しい。


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なにをしてはいけないか

最初に、私はなにをしてはいけないか、なにをしていいか、というつもりでコメントした。
なにをしてはいけないか。つまりは、善だろう。善い行い。善行。
なぜか。これは難しい。したくなくても、人間どこかで必ず関わる人と人。そのなかで、相手がいることだから、必ずなにかをしてあげたくなる。善とはそういうものかもしれない。

それをしてはいけない。またはしないほうがいい。とはどういうことか。簡単には答えられない。少しずつ書いていくつもり。

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浮世絵

もう2年になるが、浮世絵関連の仕事をしている。
項目や執筆依頼、原稿の催促などは大方終わった状態での仕事の依頼だったので、その点は助かる、がいざ、大量の項目やその整理をこなすと相当問題が出てくる。
これは端からわかっていたのだが、うまくいかなかった。打ち合わせ、了解事項が出来ていない。
この状態で、万人が読むものを作れといわれてなかなかスムースには事は運ばない。
仕事とはそういうものだ、となるが、しかし、出来る範囲のことはある。

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